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目次

ここは雑記のページです。

修養道場のことのみならず、様々なことをつづります。

ブログとして、お楽しみください。

 

2017年8月以降は、第2・第4日曜日に更新予定です。

 

6月25日  夢を見る力

7月2日  修養道場の思い出と、文集

7月9日  身延の四季

7月16日  修養道場まであと1週間☆

8月13日  人に迷惑をかけよう

8月27日  比叡山延暦寺を訪ねて

9月10日 人生初の手術

9月24日  秋のお彼岸

10月8日  いつもと違う読書の秋を

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10月8日 いつもと違う読書の秋を

 

みなさんこんにちは。

少しずつ寒くなってきましたね。

そろそろ外に出るのも億劫になりそうです。

 

せっかくの秋ですから、

読書を楽しむというのはいかがでしょうか。

 

本を買うためには外に出ないといけないかもしれませんが、

その後はずっと家で楽しめますよ!

 

私は休みの日には午前中に高槻のジュンク堂や紀伊国屋書店に行って、

気に入った本を買い、家に籠って本を読んでいます。

 

個人的な至福の休日です。

 

 

読書って楽しいものです。

大学生のとき、読書の楽しさに目覚めてたくさん本を読みました。

今でも本が好きで、家にいるときもそうですが、

ひとりで出かける際には必ず本を持っていきます。

 

よく東京に行くのですが、

最寄りのJR島本駅まで歩いて、

そこから電車で京都駅へ、

新幹線に乗って品川まで向かいます。

 

電車に乗っている時間が3時間くらいになりますので、

その間は黙々と読書しています。

 

本は結構読む方だと自分では思います。

趣味として読むことも、

先人の教えを学ぶつもりで読むこともあります。

 

学ぼうと思って本を読むのは意外と難しいです。

人生を変えるための読書、ですものね。

 

最近、そういう読書について気づきがありました。

これも縁なのか、気づきをくださったのは日蓮聖人でした。

 

 

我々の祖師・日蓮聖人は、

36歳のとき、岩本の実相寺というお寺に籠ります。

あらゆるお経を読むためです。

なぜでしょうか?

 

当時の日本では、

繰り返し飢饉が起こり、大災害までもが頻発していました。

日蓮聖人は、人々を救うための方法を知ろうと思ったのです。

 

そしてその3年後には、

主著のひとつとして知られる『立正安国論』を執筆します。

この書名は比較的知られている方だと思います。

でも、これが鎌倉幕府への意見書であったことは、

みなさんご存知だったでしょうか。

 

『立正安国論』は、異常なまでに災害や災難の続くこの国を救うべく、

原因を究明して解決策を提案するものでした。

 

自分が何を知りたいのか。

何のために自分はお経を読むのか。

学んだことを生かして人々を助けるためには、どうしたらいいのか。

 

おそらく日蓮聖人は、そのことをひたすら自分に問いながら、

経典を紐解いたのだと思います。

 

読書というのはこういうふうにするのだと、

遅ればせながら気づかされました。

 

日蓮聖人は、仏教の先輩であり、そして読書の先輩でもあったのです。

 

 

私事ですが。

18歳のころまで、人生というのは、

つまらないものだと思っていました。

 

別に嫌なことがあったわけじゃないんです。

ただ、楽しくなかったんです。

 

人生が上向きになるのをずっと待つばかりでした。

 

待っても状況が変わるわけではないのですけれども、

待つしか方法がわからないのでどうしようもありません。

 

漫画に出てくるような異世界にでも逃げたい気分でした。

 

人生はどんどん悪い方に転がっていって、

高校生の終わりにはすっかり無気力になっていました。

本当はしたいことはいくつかあったのですが、

チャンスがないとばかり思っていて、どうしても実行できなかったのです。

 

そういう人生を変えようと思ったのが、18歳のときでした。

今の自分から卒業しようとしてひたすら本を読み続けました。

 

自分の中身がどう変わったのかはわかりませんでしたが、

周囲の反応の変化で、

どうやら何かが変わりつつあることを認めずにはいられませんでした。

 

そのころ漠然と抱えていた目標は、

今ではほぼすべて達成できています。

人生を、はじめて楽しいと思えました。

 

間違いなく読書のおかげでした。

無意識的に、人生を楽しむ方法をずっと求めていたのです。

 

不思議なもので、本を読んでいるうちに遠くにあったはずの目標が、

手の届く範囲にあることに気づけたのです。

 

人々を助けたいと思って経典を読んだ日蓮聖人。

自分の人生を変えたいと思って読書を続けた私。

 

スケールは全然違いますし本来比較などできないのですが、

目的を持って先人の教えを学んだという意味で、

どちらも尊いことだったのでしょう。

 

 

記事を書いているうちに日が沈んで、夜になりました。

寒いです。油断して風邪をひきました。

秋らしい気候です。

 

やっぱり秋は読書ですね。

 

もちろんどの季節にもお勧めです。

ですがせっかくの読書がクローズアップされるこの季節です。

今年の秋こそ、

いつもと少し違う読書の秋にしてみるのはいかがでしょうか。

 

ただの読書も楽しいですが、

ヒントを探すように本を読むと、もっと楽しいです。

 

読書は積み重ねです。

積み重ねということは、

積めば(読めば)高くなるということです。

 

見えるのものも変わります。

移ろいがちな他人の評価や、来週には忘れるような苦しみがすうっと抜けて、

はっきりとした自分の目指しているものが意外と近くにあることに気づけます。

 

1冊のなかの1ページ、

1ページのなかの1行、

1行のなかのひとつの言葉を見つけるだけでも、

確実に最初の1段になるでしょう。

 

今年の秋こそ、みんなで最初の1段を積みましょう。

 

 

合掌(-人-)

大阪府三島青年会 沙門某

 

 

追記

カズオ・イシグロさんがノーベル文学賞を受賞されましたね。

読書を勧めるこの記事を書いている最中のことでした。

 

この方の本はまだ読めていなかったので、

近々高槻の書店で手に入れてきます。

 

市内のどこかの書店で、

カズオ・イシグロさんの本を持っている坊主頭がいましたら、

ぜひお声がけください。

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9月24日 秋のお彼岸

 

皆さんこんにちは

風がすっかり秋らしくなり暑さもだいぶ和らいできましたね。

諺では「暑さ寒さも彼岸まで」と申しますが…

そう、秋分の日はお彼岸(中日)でした!

高槻市上牧にあります自坊(←うちのお寺のこと)でも中日に法要を厳修しました。

 

(写真は法要に向けて用意を整えた本堂です)

折角の機会ですので、

「知っているようで意外と知らないお彼岸」ということで簡単にお話しようと思います。

 

Q.そもそも彼岸って何なのですか?

A.「彼岸」=あちら側の岸、すなわち世間で言う「あの世」のことで、

仏教的な解釈では悟りの世界である霊山浄土を指します。

反対語は「此岸」=こちら側の岸、煩悩に溢れた私たちが今いる世界(娑婆世界)のことを指します。

 

Q.なんで春と秋に彼岸はあるのでしょうか?

A.春分と秋分の日は太陽が真東から登り、真西に沈みます。

また昼と夜の長さがほぼ同じことから、

「此岸」と「彼岸」が最も近くにあり通じやすいと古来では考えられていました。

お彼岸は春分・秋分の日を挟んで前後三日も含めた一週間の期間のことを指します。

 

Q.彼岸にご先祖様を供養するのは何故でしょうか?

A.そもそも彼岸の一週間には、私たちが「此岸」から「彼岸」に至れますようにという想いを込めて

「六波羅蜜」=布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の修行をするのが本義です。

その中日に「彼岸」にいらっしゃる先祖様への感謝の意を込めて供養しているのです。

 

Qでは.六波羅蜜を詳しく教えて下さい。

A.詳しくは長くなるので次の機会に。それぞれザックリ端的に言うと…

布施:貪欲な心を捨てて(見返りを求めずに)他人に施し(=財産・教えetc.)を与えること

持戒:自分の悪業の心を捨て去り仏さまの説かれた教え・戒め(=不殺生etc.)を守ること

忍辱:辱めを耐え忍ぶ、つまり人をゆるし、受け入れて寛容の心をもつこと(≒キレない)

精進:怠ける心に打ち勝って、物事に対してひたむきに努力をすること

禅定:心の動揺・散乱を排除してどんな場面でも平静を保ち、周囲に流されないこと

智慧:上記5つを常に実践することで正しい判断力をもつこと

 

 

じっくり説明すると余りにも長くなってしまうので...

今回は「お彼岸」についてちょこっとだけ触れてみましたが、

関心を持たれた方は是非近くのお寺にお参りしてお坊さんの話を聞いてみましょう!

 

合掌(-人-)

大阪府三島青年会 沙門某

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9月10日 人生初の手術

 

私事ですが、8月下旬に親知らずの抜歯の手術を行いました。

 

今回親知らず(第三大臼歯、知歯とも言われています)を抜こうと思ったのは、

歯医者さんで抜いたほうがいいと勧められたからです。

自分の親知らずは、真横に生えており、

歯茎からちょっとだけ歯が見えている状態だったので将来的なことを考えて抜いた方がいいといわれて抜きました。

 

掛かりつけの歯医者では、

抜けないということで阪急高槻市駅前にある大阪医科大学附属病院で行いました。

約1年前に建てられた新しい手術棟で手術を行いました。

まだできて新しい施設だったのでとてもきれいでした。

初めての手術だったので緊張しました。

 

今回の抜歯では、右の上下の親知らずを抜きました。

上の方が5分かからず抜けたので滅茶苦茶早いとびっくりしました。

下の方は、歯自体が大きく奥の方まであったので抜くのに結構時間がかかりました。

 

抜歯後、麻酔が効いているうちは、然程痛みは感じなかったのですが、

麻酔が切れてから、自分が思っていたよりも痛みました。

痛み止めの薬も処方してもらっていましたが、最初のころはあまり効きませんでした。

3、4日間は、まともに口が動かず、食べることやお経を読むことが困難でした。

1週間以上過ぎた今でも痛みが少し残っている状態です。

左の下の親知らずも抜かないといけないのでもう一回この痛みを味わうと思ったら嫌な気持になります。

 

今回のことで歯の大切さを再認識しました。

特に、僧侶という職業に於いて喋れないというのは、大問題だなと思いました。

今は、住職である父がいるので自分が喋れなくてもお檀家さんとかに迷惑かけることはなかったですが、

もし今回抜かず、将来的に自分が住職になってから奥歯と親知らずの間で虫歯ができ、

抜歯することになったらお参り等が数日間できなくなるかもしれません。

このようなことになれば、お檀家さん等に迷惑がかかるので、

今のうちに親知らずは、抜こうと思いました。

 

今後は、より一層に歯のケアをしていこうと思いました。

皆様も毎日の歯磨きを行うようにして虫歯等にならないように気を付けてください。

 

合掌(-人-)

大阪府三島青年会 沙門某

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8月27日 比叡山延暦寺を訪ねて

 

 

私事ですが、つい先日彼の有名な比叡山延暦寺に参拝してまいりました。

比叡山は平安時代に伝教大師最澄によって開かれた日本天台宗の総本山です。

延暦寺は浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞など

日本仏教史の上でも有名な僧侶が比叡山で修業されていることから、

「日本仏教の母山」とも言われています。

 

日蓮大聖人も比叡山を中心に三井の園城寺・高野山・諸宗寺院を巡歴し、学問を追及されました。

多くの教えがある中で何が真実であるのかを知るために十二年の御修行をなされた、

その史蹟を訪ねることで憚りながら、

日蓮大聖人の求道の精神に少しでも触れることが出来たのではないかと思います。

 

合掌(-人-)

大阪府三島青年会 沙門某

↑秋にはこのように紅葉が楽しめます。昨年10月末撮影(大阪三島宗務所提供)。

日蓮聖人がかつて遊学された、横川定光院の入り口です(大阪三島宗務所提供)。

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8月13日 人に迷惑をかけよう

 

貴方は人に迷惑をかけていますか?

 

僕はかけています。

僕の一挙手一投足に師匠も、檀家さん方も肝を冷やしていることかもしれません。

僕の場合、手足というより口でしょうが。

 

かけていないという方もいらっしゃるでしょう。

今の団塊の世代と呼ばれている方々の中には

『老後は誰の世話にもならない』とおっしゃる方もいるのが現状です。

『葬式の費用を負担する保険』なんてものもあるそうです。

 

ああ、なんて今を生きている方々なのだろう、と思います。

決して、それを悪いと言っているわけではありません。

 

死体の処理も、お葬式の段取りも、親戚の付き合いも、

相応のお金が解決してくれる、そういう考え方もあって良いのでしょう。

お葬式を"負担"とおっしゃるのも、

きっとその方にとって親の葬式がそうだったのではないかと邪智してしまいます。

自分は親孝行なんてしたくない、だから自分の子どもにも求めない。

それが世間の風潮なのかもしれません。

 

でも一人でいても必ず死ぬのです。

 

死んだら誰かが死体の処理をしなければなりません。

迷惑をかけないというならば、誰も悲しまぬように、誰にも見つからぬように、

知らぬ間にこっそりと絶対に誰も来ない場所で死ななければなりません。

 

しかし、私にはどうもそれは味気なく感じてしまいます。

僕は親に感謝しています。

ですから、親が旅立った時の後始末くらいはさせてほしいと思っています。

当然、親が生きている間に出来る限りのことはして行くつもりではあるし、

幸いなことに親自身もまだまだ若く、健康です。

しかし、我が身をここまで育ててくれた恩はおそらく一生返しきれないものだと思います。

だから死後の世話もさせて欲しいのです。

それでも返しきれない恩は、その血を繋げ、子孫に渡していくモノではないでしょうか。

 

恩も縁ですが、迷惑も縁です。

 

それはコインの裏表のように、人とつながれば必ず降って湧く問題なのです。

世間と貴方は恩と迷惑で繋がっている。

恩だけを渡し、恩だけを受け取るなどムシのいい話はありません。

迷惑をかけましょう。同じくらいに恩を渡しましょう。

それが、人と繋がるということです。

 

合掌(-人-)

大阪府三島青年会 沙門某

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7月16日 修養道場まであと1週間☆

 

こんにちは

いよいよ第34回青少年修養道場まで1週間となりました。

私自身はスタッフとして準備に追われると同時にとてもワクワクしてきます。

さて先日、今回の研修・宿泊先の友愛の丘(京都府城陽市)と

山城総合運動公園(太陽が丘、同宇治市)に最終的な打ち合わせと巡見に行ってまいりました。

今回の修養道場ではお経を読んでお勤めをしたり、仏教のお話を聞く研修のほか、

一日目の晩御飯は皆さんでカレーを作ります。

 

↑森林に囲まれたロッジの中でカレーを調理・皆で一緒に食べます!!

私も普段は何気なく食事をいただいていますが、

毎日毎食お母さんがご飯を用意することは実は「大変な」なのです。

薪で火を起こして全部自分達で具材も用意して苦労しながら作るカレーは格別に美味しいですね。

きっと楽しむだけでなく「ありがたい」という感謝の念を肌で実感することができると思います。

 

↑修行だけでは気が滅入ってしまいますので、

2日目は山城総合運動公園(太陽が丘)でノビノビと遊びます!!

多種多様な植物や野鳥などの自然豊かな公園で、とても広く開放的で気持ちが良いです。

(写真に送電線が映り込んでいますね、撮影が下手ですみません)

芝生の丘や広場にアスレチック・滑り台など沢山の遊具が置いてあり、

私もちょっと童心に戻って試しに乗ってみましたが…体重超過のせいか上手く滑れませんでした(笑

自然に触れ合うと、とても心が落ち着きますが、

この心のことを仏教では「安心(あんじん)」と申します。

また「娑婆即寂光土」とも申しますが、難しい言葉を説明して頭で理解するだけでなく、

ふとした瞬間に実際に体感することができる良い機会になればと期待を膨らませています。

 

スタッフ一同、青少年修養道場を心より楽しみにしています。

 

合掌(-人-)

大阪府三島青年会 沙門某

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7月9日 身延の四季

 

今回のブログでは、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の見所を紹介してみようと思います。

まず、身延山久遠寺が何処にあるのか知っていますか?

身延山久遠寺は、山梨県南巨摩郡身延町身延という場所にあります。

 

大阪から車で行くには約5時間はかかります!

なかなかの遠さですね。

私もお参りや用事があり、何度か車で行きましたが遠いなと思いました。

でも訪れると行って良かったと思います。

都会の喧騒を離れ、自然豊かな身延の御山の息吹を感じられるのは、

気持ちが良いものでした。

 

我々日蓮宗の僧侶にとって身延山は、

日蓮聖人の御生前最後の9年間「法華経」の読誦や

お題目である「南無妙法蓮華経」を唱えていた修行の場であり、

今でも日蓮宗の多くの僧侶が「法華経」や「南無妙法蓮華経」と唱えて日々修行を行っています!

日蓮聖人は、この山は草や木、吹く風、流れる水の音にまでも

南無妙法蓮華経のお題目が染み渡っていると仰っています。

そんな清浄なるお山である身延山に、我々僧侶は訪れる機会を楽しみにしていますが、

実は僧侶以外でも楽しめる見所が多いお山です!

 

さて、今回見所をテーマにしたのですが、

その中でも身延の四季に焦点を当てていきたいと思います。

 

まず、春には、しだれ桜が満開に咲き誇り、綺麗な景色が見られます。

しだれ桜がちょうど見頃を迎えるのは、4月です。

この時は、観光客もたくさん来ています。

身延のしだれ桜は、全国のしだれ桜10選のひとつです。

しだれ桜は、私も見ましたが、大変綺麗でした。

桜の花が地面に垂れ下がる光景は、普通の桜とは、また違った味わいがあると思いました。

 

夏には、若葉が青々を茂り、森林浴を行い、リフレッシュするには、いいのではないでしょうか。

しかし、身延の近くの甲府では、

最高気温40度越えがあったりするので身延も暑い日があるので見に行くときは、

しっかり水分補給などをしましょう。

 

秋11月上旬には、紅葉が見頃を迎えます。

杉と落葉樹の紅葉の対比が艶やかで素晴らしく綺麗です。

 

冬には、雪化粧をした身延の山々や寺院が見えて、普段と違う幻想的な風景です。

この時、車で行くのであれば、ちゃんと雪対策を車に施して行きましょう!

お参りや観光に行く前に事故を起こしたら悲しいですから。

 

このように身延には、四季折々の景色が楽しめます。

一般の方も気軽に身延山の雄大な自然を観光しに行ってみてもいいのではないでしょうか。

「総本山にお参りに行く」と固く考えず、景色を観光しに行き、

そして総本山をお参りするという風に気軽に考えて行ってみるのも一つの考え方ではないでしょうか。

年間を通して法要なども執り行っているので、法要を聞きに行くのも良いことだと思います。

一度でもいいので日蓮宗の総本山である身延山にお参りに行ってみては、どうでしょうか?

普段の生活の中では、味わえない体験になると思います。

 

合掌(-人-)

大阪府三島青年会 沙門某

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7月2日 修養道場の思い出と、文集

 

今でこそ修養道場のスタッフ(先生)をやっておりますが、

ほんの十数年前までは、わたしもまたひとりの子ども参加者でした。

お坊さんの先生たちに連れられて、お寺でお勉強をして、

キャンプ場でカレー作りやバーベキューをしたのを覚えています。

つい最近、そのときの先生とお話しをする機会がありました。

そこで驚くような話を聞きました。

当時の修養道場では、将来の夢を書く文集を作っていたそうで、

わたしはそこに「将来は小説家になりたい」と書いたそうです。

 

嘘でしょうと思いました。

そのころ、わたしは子どもなりに本気で小説家になりたいと思っていました。

ただ、子ども心は意外に複雑で、

「小説家を目指している子」と思われることがすごく恥ずかしかったのです。

それどころか、自分の好きなこととか、欲しいものとか、将来の夢とか、

そういう自分の内側から湧き上がってくるものを表明することが恥ずかしくて仕方なかったのです。

だから、まさか文集で恥をさらしているなんて、考えもしませんでした。

そもそも文集を読む人がいるなんて思っていなかったのでしょうし、

それを読んだ人が十数年後、書いた本人に内容を伝える可能性があるということを、

理解していなかったに違いありません。

 

以上、それがわたしの修養道場の思い出でした――と、そんなことを書いているうちに、

忘れていた当時の修養道場について色々と思い出しました。

断片的なものですけれどね。

 

なぜか、二人掛けのバス席に三人で座っていたこととか。

(肘掛けが左太ももに食い込んでとても痛かったです)

ひらかたパーク(高槻市内からすぐ行けたので、当時の修養道場の定番でした)で、

嫌と言えなくて仕方なく絶叫マシンに乗ったこととか。

竜王山荘か摂津峡かのバーベキューのとき、

どんどん具を焼いた低学年の子たちがすぐお腹いっぱいになり、

無理して残飯処理をしたら苦しくなったこととか。

 

おかしい。ロクな思い出がないじゃないですか。

そもそもなぜ災難を切り抜けようとしないのか。

考えてみればどれも、別に引かなくてもいい貧乏くじです。

我慢できる自分エライと思っていたのかもしれません。

 

ただ、誤解のないように付け足しておくと、

別に我慢だらけだったわけではないのです。

先生たちはとても面白かったので、話を聞くのがとても楽しかったのを覚えています。

帰ってきてからも、一緒に参加した友だちと、

先生の言ってたことを思い出してはゲラゲラ笑っていました。

 

その他にも、修養道場ではいい意味で不思議なことがありました。

ひとりで寂しくポツーンとしていた記憶がまったくないのです。

内気だったはずなのに、なぜか毎年新しい友だちを作っていました。

自分から輪に入っていったとは思えませんから、自然と誰かが話しかけてきてくれたのでしょう。

当時のわたしにとって一泊二日で出かけるのは結構な挑戦でしたから、

そのご褒美だったのかもしれません。

 

こうやって思い返していると、また文集のことが気になってきました。

書いた記憶はないのに、現に証拠は残っているわけですし。

ただ不思議なもので、思い出そうとしているうちに、

何書こうかな、どうしようかな、なりたいものはあるけれど……よし、書いちゃえ。えいっ。

こんな風にして書いたような気さえしてきます。

書いた記憶はないですが、書いたときの感覚のようなものはわかる気がします。

多分その瞬間はすべての音が一瞬消えて、ぶわっと体温が上がったはずです。

記憶違いなのかもしれませんが、やけにリアリティがあるので本当と言っても嘘ではないでしょう。

 

後先考えずにやらかしてくれたおかげで、今のわたしもちょっと恥ずかしい。

ただ、もしかしたらですが、本当に恥じないといけないのは当時の自分に対してなのかもしれません。

結局わたしは小説家にならなかったわけで、

子どものころの自分に「どうして?」って尋ねられたら、ちゃんと答える自信がありません。

そのころは、将来は当然小説家になるものだと思っていましたもの。

 

現実は厳しいし、大人だってしんどいんだよ、って答えるのもひとつですが、

それは当時の自分にとって一番許せない答えでしょう。

文集に書くほどにはっきりしていた将来の夢は、

大人の自分に向けた「自分はこういう風に生きるんだよね?」という切実な問いだったのだと思います。

約束だったのかもしれません。

それの答えがこのエッセイもどき一文というのは、ちょっと細やかすぎではありませんでしょうか。

 

それでも大丈夫です。

敗残処理のようなこんな文章を書くことも含めて、

子どものころに思っていたよりも、人生はずっと楽しいものです。

こうしたことを語る日が来たことを、嬉しく思います。

残念ながらそれは、大人になったからこそわかったことなんですけれどね。

ただ、これからやってくる子どもたちには、何か願い事があるなら、

できるだけ叶えてほしいなと思います。

叶わなくても楽しい人生ですが、叶ったら面白いじゃないですか。

 

今回の修養道場のテーマは、「手を合わせる」です。

手を合わせること、礼儀のひとつですね。

礼儀を通して、スタッフ一同、

「相手を大切に思うということ」についてお伝えしていきたいと考えています。

相手を大切に思えば、相手もまた自分のことを大切に思います。

そうすれば、相手は自分のために、信じられないくらい協力してくれるでしょう。

願いごとはずっと叶いやすくなります。

そして叶わなくても、叶ったときと同じくらい楽しい将来が開けることでしょう。

それは、自分を大切にすることでもあります。

 

修養道場は、子どもたちの未来を作るところです。

今までもそうでしたし、これからもそうです。

そのためのひとつの方法である「手を合わせる」ことについて、

みんなで勉強していきましょう。

当日をお楽しみに。

先生は今から待ちきれないくらいに楽しみです。

 

合掌(-人-)

大阪府三島青年会 沙門某

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6月25日 夢を見る力

 

はじめまして。

大阪府三島青年会です。

 

会長の勝手な思いつきではありますが、ブログを始めることと相成りました。

 

みなさん!

ただでさえ忙しいのに、仕事を増やす上司ってどう思いますか?(笑)

 

でも、お坊さんのお話なんて聞いたことないよ、って人が多いとも想うので、頑張って書きますね。

ここでは日蓮宗のこと、青年会のこと、教えのこと、お寺のこと、私達の子どもたちに対する想いなど、

いろんなことを書いていければいいなぁ、と思います。

 

 

第一回を任されるのもプレッシャーというものです。

 

それもこれも、ブログというものが一般化したのが原因です。

世の中の発展の早さに少々辟易してしまうのも、私だけではないでしょう。

 

思えば、私(まだぎりぎり20代です)が中学生のときにはまだ友達の家に電話をかけていたのです。

せいぜい15年弱前ですよ?

今の子どもたちは好きな女の子ができても直接電話できるんですよね?

いいなぁ、昔はお父さんが出ないかヒヤヒヤしていたのに。

 

だから、今の子どもたちがどう育っていくのか。

多分、私達大人にはどうやったって想像がつかないのです。

だって、スマホもインターネットも、私達が子供の頃にはなかったんですから。

何に悩むのか、なんでそんなふうに考えるのか、なんでわかってくれないのか。

今の若者にそんな疑問を持っている人はすでにたくさんいるでしょう。

それが、もっと顕著になっていきます。

 

どう育つかわからない子どもたちに、私達大人は何を言ってあげれば良いんでしょうか?

大人たちがわからないのなら子どもたちは、何を心の指針として生きていけば良いんでしょうか?

 

『賢者は歴史に学ぶ』と申します。

ここはお坊さんらしく、もっと偉いお坊さんの言葉をご紹介しましょう。

 

もちろん、日蓮宗の開祖日蓮聖人です。

800年位前の人ですが、御経をたくさん勉強されました。

たくさんたくさん勉強をされて、色んな人にいろんな手紙を残しております。

その中の一つにこんな言葉がかかれています。

 

「まず、臨終の事を習うて後に他事を習うべし」

 

「最初に、終わりのことを考えて、他のことはその後に考えよう」

 

そう、人の心の最初に大事なのは『どうするか』ではなく『何を成すか』です。

 

船が立派でも、地図が精巧でも、どんなに健脚でも 目的地がなければ旅は成功しません。

 

逆に何をするかが決まれば、手段などどうとでもなるのです。

 

現代の子どもたちには手段と情報が溢れんばかりに提供されます。

学校の先生より、グーグル先生に聞いたほうが正確な答えが返ってくることも多いはず。

 

そんな子どもたちに、私たちは『どこに行くの?』と聞いてあげましょう。

 

彼らは自由になりました。

これからもどんどん自由になります。

 

学校にしても就職にしても結婚にしても、レールが用意されていた時代は終わったのです。

 

何をしたいのか、どこに行きたいのか。

子どもたちが生きていくのは『夢を見る力』が問われる時代です。

 

私は、この『夢を見る力』を子どもたちに教えてあげたい。

この力は偉大で、無限です。

人を不得手からも救ってくれます。

人間を救う力を持っているのです。

 

本当か、ですって?

 

 

だって見てください。

私がこの目標を考えて文章を書いていたことで、

ブログ一回目のプレッシャーはどこかに飛んでるのがわかるでしょう?

 

合掌(-人-)

大阪府三島青年会 沙門某

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